昭和46年04月10日 朝の御理解
御神訓 一、「真に有難しと思う心 すぐにみかげの初めなり。」
真に有難いと。しかもその有難いということは、霊験の初めだと教えておられます。実に不思議な有難さということになるでしょうね。霊験、霊験とは真に有難いという心ね、不思議な心であります。信心の喜びというものは確かに不思議なものです。信心のない人から見たら、実に不可解なものであろうと思います。真に有難しと思う心すぐに霊験の初めなり。霊験、霊験を霊験とこう言います。霊験あらたかなという霊験と。という不思議な、不思議な有難さ。
例えば自分の思いが適うたとか、願いが成就したとか、そういうところから頂けれる有難いと、広大なおかげを頂いてという、そういう有難しというのではない。真に有難いというのはそうではない、それでも私は有難い、けれども真に有難いというのは、不思議な有難さ。私どもが子供の時に聞かせて頂いとる話の中に、善導寺の初代が話しとられる話、幾つもは残ってないけれども、それでも幾つかは非常に心深く残っておる。その中の一つをいつも皆さんに聞いて頂くのですけども。
善導寺の御本山の角に、岸という饅頭屋がありますね。あちらのお祖父さん、もう亡くなられました、三井教会の総代をなさっておられましたが、金光様が善導寺の町に見えられた。それでまあ善導寺の町筋はほとんど、当時は皆お参りしたそうですね。そんな訳で岸さんもお参りがあった訳です。ところがこの人は非常に癪持ち、しかもとにかく朝起きが出来ない。起きると頭がフラフラする。いわゆる癪持ちという。
そしてお参りさせて頂いて、その当時自分がそのことをお願いなさった。ところが親先生が、その岸さんに一番初めに説かれたのが、この御教えだと言う事であります。真に有難いと思う心がみかげの初めなり。もうすべてが有難い有難いで受けて行くと言う事。そのなぜ受けなければいけないかと言う様な事は、今日説かれたのに違いありません。そういうお願いなさって帰られて、その翌日、庭の入口に牡丹のようなものですね、とげ牡丹ですね、「とげ牡丹」をこう一杯庭に這わせてある。
その庭のくぐり戸を開けられたところが、上の方を這うておったのが、どういう加減でしょうかね、こう開けられた時に、上の何をこう引っ張った感じになったんでしょう、丁度何かゴムか何か引っ張ったように、棘のある牡丹で、あの方は若い時から非常に頭が薄かったですね。禿げておられましたから。それでねこう這い入ろうとしたのと、棘牡丹がボーンとね返ったので、棘が頭にとが一緒だった。
ですから頭から真っ赤な血が出た。その時に昨日頂いたばっかりの、真に有難いと思う心、すぐにみかげの初めという、それが一瞬閃いた。信心しよって起って来たことは、何でも変わってきたことが起こってきたら、有難いと心得て信心せよと言われるような御教えを頂いて、そういうことが起こった。それが信心がない、御教えを頂いてなかったら、本当に、あ痛いよと言うただけだったでしょうけどね、それは随分真っ黒い血がたまった。それっきり癪がと言う事と、頭が重いとか。
フラフラすると言う事がなくなったという程しのおかげを受けられたという話を聞かせて頂いた。まあおかげ話でありますね。私の頭の中に残っております。だから普通では有難いはずはない、怪我をして有難い心は湧いて来んのですけど、そこが信心させて頂き、御教えを頂いておると、不思議に不思議な心が湧いてくる。不平不足を言いたいような時、却って、誰がこんなことしとったかと文句の一つも言いたい時にです、反対にありがたい心が起きておる。成程みかげのはじめであります。
不思議な心真に有難いという心は不思議な心だと思いますね。どう言う様な状態の時にその有難いという、それは有難いと思わにゃならんと思っておっても、有難いという心は不思議な心ですから、不思議に起きてはこない。けれども信心させて頂いておるとその事が有難い。本当に不思議な心である。そこでですね例えば岸さんの事を例に取るとです、初めてお参りをしたばかり、初めて金光様の話を聞いたばっかりで、そういう不思議な心が起こったと言う事は初代の荒巻先生の御取次のお徳であろうと思います。
いわゆる霊徳著しい、いわゆるご比礼の輝いております、時代のお話でございます。いわゆる、どこででも金光様ちゃあらたかな、神様ではあるというおかげを、頂いておられる時分の事でございましょうからね。やはりその心は神様が下さるのだ。有難いという心は神様が下さる。そしてそういう例えば、怪我しても例えば有難いと言う様な心になる時こそ、人間の幸人間の幸福というものは、そこが分ることだと、教祖様は教えておられるとこう思います。
幸福というのは幸せというのは、幸という字を漢字で書いて、それを反対に引っ繰り返して読んでも、やはり幸という字になります。ですから上から見ても下から見てもやはり幸という字になるですね。それは嬉しいことにつけ、普通で言うなら嬉しくないことでも、有難いと感ぜれれる心が幸せだと言う事になる。「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのは、そういう心の状態をみっちり身に付けてくれよと。いつもが有難い、これはもう実に不思議な不思議な心である。
やはり信心しよる者は馬鹿なことばかり言うと信心のない者は思うです。怪我をして有難いなどと言いよる。けれども私は本当の幸福というものは、そういう時でも有難いということが分かり、道理が分かり、有難いと実感出来れるということが本当の幸福だと思うのです。人から悪口を言われる。腹が立たなけりゃならんのに、反対に有難いと言うのですからね。不思議な不思議な心です。
先日ある方がお参りになった。お届けをされる。ご主人も大変お酒の好きな方、息子さんも大変お酒の好きな方、もういつも酒さえ飲めば文句はない。酒のためいつも難儀を感じておられる。やはり家のメグリというものであろうか。親も酒で難儀しとるが、その息子もまた酒で難儀をしておる。飲まん時は本当に仏様のごたるけれども、飲むと間違うてくる。そこで私自身、お届けの中に私自身、いつも主人の酒に苦労してきたが、嫁もまたお酒で苦労せんならんとこう思うておった。
メグリというものであろうかと。酒を飲みさえせねば本当に立派な男でありますけれども、飲むとだらしがなくなる。乱暴をする。丁度お参りされた前の日もなんかそういうことがあった時にも、ふっと自分の心の中に感じられたこと。これはね、これは本当に村中でもこういう所は先ずなかろうが。親子揃うて酒で難儀する家はなかろうが、私でも嫁でもです、村中一番のおかげを受けられる。お徳の受けられる場に立っておるということを気付かれた。
成程主人が酒を飲んで、くだ巻く酒を飲んで乱暴をする、それは嫌なことに違いはない、困ったことに違いはない、けれども私ども親子は信心をしておる。ただそれがどうぞ、酒の量が減りますようにとか、酒で失敗しませんようにとか言うて願っている間は、そういう心は起こらなかったけれども、段々信心を分らしてもらって、ふと自分の心の中に思わせて頂いたことはです、このような難儀なことになってきた。いやこのような難儀な事柄が、今はみかげになったと、難はみかげになったと。
そのことによって親子の者が修行をさせて頂く時、これは村中一番の私ども親子はお徳を受けるなと思うたら、有難うなってきたと言うておられます。まわりにそのことを言うても、信心がまだ薄いから分かるまいけど、そのお祖母ちゃんはそれを実感したと。というような不思議な心が起こってくる。してみると、そこにまた飲んで、また飲んできたというような時にです、これでお徳を受けるんだ、力を受けるんだと思うたらです、楽しいことまではなかろうけれども。
そのことは神様がお徳を下さろう、力を下さろうとする、私ども親子の上にそういう働きがあっておるんだと思うたら、村中一番の幸せ者だぞという有難い心が湧いてきたと言っておられます。信心ちゃ不思議なことですよね。すでにもう真に有難いと思う心、すぐにみかげの初めになっておる訳です。それを難儀とばかり見ておる。困ったことばっかりで見ておる。それがお話を頂いてです、分かってはおるけど実感として有難いものが湧いてこなかったらしかたがない。
だから有難いという心が、何かの調子にふと自分の心の中に、神様が下さるものが、恵んで下さるものだと言う事が分かります。有難いという心は神様が下さるのです。そこで私どもは、その霊験でありますところの、真に有難しという心を求め求めして行くことが信心であると言う事が分かります。真に有難いという心が頂けるなら、どの様な遠い所にでも、お話を頂きに行こう、真に有難いという心が頂けるなら、どういう遠いところにでもお参りをさして頂こう。
昨日も善導寺の青木さんがお参りになった。大体夫婦で御本部参拝するはずで、お話になっておった。ところが今ご主人が体が悪くて大変弱っておられます。まだ若いのですけどね、私よりも若いくらいですけれども、まあ言うならば廃人のような感じですね。これもやっぱりお酒をあまり頂かれてからの結果らしいです。それで二人で参ろうと言う事になっとったところが、近所の方がある教会にお参りしている方が見えてから、「こげな状態なのにあんたどんようお参りするな」と。
「もう今年はやめてから来年どん参らんの、私も参るけ一緒に参ろ」と言われるけ、「せっかく思い立っておるのに」と言うて、その主人はそれを聞いて、「なら私も参りめ」と言う事になった。それでも、やはり病人さんですから、まあ一人放って参る訳には行かない。そこで息子さんのところへ何日か預かってもろうて、唐津の方へ息子さん行っとられますので、電話掛けたところが、息子がすぐ自動車で迎えにきてくれた。今主人を送り出してから、新たにお願いに参りましたと。
「今度の御本部参拝だけはどうしても一つ、本当の御本部参拝にならしてもらわなければならん」と言うてお願いをなさる。いわゆる真に有難いものを求めて、沢山のお金を使うて、何日間もかかって言わば遠いところまでも、御本部参拝させて頂いてでも、真に有難いものを頂いて帰ろうとする意欲というか、願いというものがやはりなからなければいけん。今回はここからも八十名の方が御本部参拝されます。それは成程道中でも楽しゅう、まわいわい言いながら楽しゅう参拝することも結構でしょう。
けどもその根本のところには、これは御本部にお参りしなければ頂けない真に有難い心、御本部参拝でなければ頂けない有難いという心を願い求めての、それは参拝でなからなければなりません。ですから私どもは真に有難いという心を、これは神様から頂くのですから、何時どういう時に頂くか分からんけれども、神様に喜んで頂くという心、そういう心をいつも使わして頂かなければならない。それを作日の御理解の中には、真心と頂きましたですね。真心はという見方。
真心というのはあらゆる角度から説かれますけど、昨日初めてそのようなこと頂きましたですね。真心というのはね、神様が喜んで下さる、神様に喜んで頂く心が真心。私どもはこれを人に真心を施す。相対しておる事柄を、又は人に真心を尽くす。成程それは真心の場合もありましょうけれども、往々にしてそれは間違いやすいのです。真心のごとして真心でない。ですから真心というのは、もう一ぺんその人に真心を施す前にです、神様に伺う心、果たして今私はこの人に真心を施そうとしておるが。
神様が喜んで下さるであろうか。それを一ぺん自問自答してみなければいけません。例えば真心で人に物を恵むと申しましょう。困っとられる方があると、それを恵んであげる。真心で自分はしておると思っておるところが、それを神様の目からご覧になったら、それは苦々しいものであるかもしれない。自分は真心と思うて恵んでおるかも知れないけれども。まあ極端な例ですけど、物もらいなんかに親切を施す。真心で少しの物でも施すと致しましょうか。自分は真心でと思っておる。
ところが、神様が苦々しゅう思うておられるかもしれない。お前がそんなことするから、この人はいつまでも乞食根性から放れることが出来ない。もろうてさるけや、働かんでんもらわれると言った様な心を起こさせるじゃないか。お前は真心と思うとるけど、本当はそれは真心じゃないぞと思いなさる様な事が沢山あろうと思う。私共が真心と思うている心は、もう一ぺん自問自答して、果たして神様が喜んで下さる心であろうかと、確かめた上のことでなければ真心ではない。
言わば神様が喜んで頂く心こそが真心だという心。だから神様喜んで頂けると言う事が出来ることがです、私は真に有難いという心が。またこちらに頂けることだと言う事が分かります。またはその真に有難いというものを求めて行くことが信心なのですけれども。本気で信心を分からしてもらおう、本気で信心の稽古に取り組ませて頂こうと、そこから修行が始められる。それがです、私は繰り返し繰り返し出来て行くところから生まれて来る心がです、何とはなしに有難くなると。
幹三郎が先日の体験発表の時に申しておりましたように、「毎日親先生の御供をさせて頂いて、こうやって修行させて頂いておると、自分の願いが成就するわけではない、聞いて下さることはないけれども、何とはなしに有難うなってきた」とこう言うとります。その何とはなしに有難うなってきた心がです、私はいよいよ本当なものになる時に、それは真に有難いという、いわゆるいつもが有難いという心のこれが基礎になるものだと思う。信心修行させてもらう。
その信心修行が何かをそこに貰わねばならんというのでなくて、本気で信心を分かろう、本気で信心にならして頂こう、そのための修行が日々繰り返されておるうちにです、信心は理屈じゃないと言われるが確かにそうです。何とはなし有難うなってきたと言う事を言っているようにです、その何とはなしに有難うなって行くのが、段々本当なものになって行く時です、そういう心が私は真に有難いという心になってくると思います。
ただ 時々有難いというのじゃない、もう真に、何とはなしに心全体が、体全体に有難いというものが漲ってくる、そういう信心が私は尊いと思う。断片的にただ有難くなる。成程それは有難いけれども、またおかげを頂いて有難いと思う。それも有難い、普通ではとても感じられん難儀な中にあっても、ふと自分の心の中に、有難いものが湧いてくる。成程これもみかげ、不思議な有難さであります。
けれども、それは自分の魂全体にです、有難いものが染み込んでゆくというものではない、そういう信心が分かりたいと、信心の稽古を倦まずたゆまずさして頂いとるうちに、何時の間にか、別に願いが成就するのではないのに、何時の間にか有難うなってくる。何とはなしに有難うなってくる。その何とはなしに有難うなって行くのが、心全体に体全体に漲ってくる。漲るところの有難さ、それこそが私は真に有難いのではなかろうか。そういう心の状態が、本当なものになった時にです。
幸という字じゃないけれども、上から見ても下から見ても幸と読む。どのような場合であっても、幸を感ぜられるおかげが頂ける。これこそがみかげ、おかげじゃなかろうかとこう思います。真に有難いという本当の意味においての真に有難いのは、ただお参りをして有難い、お話を聞いて有難いというだけのものじゃなくて、本気で信心の稽古をさせて頂こうという心がです、それが修行の上まで現われてくる。修行にそれが現われてくる。そういうところから真に有難いという心は生まれて来る。
いや備わってくるとでも言えますでしょうね。有難いという心が、心全体に、心の中一杯に備わってくる。そういう有難いと言う事が、本格的な真に有難いという風に思えます。お互い信心させて頂いて、何が目的かと言えば、本当に有難いという心を求めての信心でなからなければならんと思います。これは信心のない者には不思議でたまらないくらいであろうと思います。
けどまだ信心さして頂いて、分からせて頂くことは信心のない間は、到底味わえなかった信心の境地でもありましょう。いわゆる妙賀であります。喜びの心どこから湧いてくるか分からん有難いという、そういうものを心の中に頂かしてもらう喜び、そういう喜びを信心の喜びでありましょう。またそういう信心の喜びを目指して、信心の稽古をさして頂くと言う事になりますね。
どうぞ。